2015年に夫がアメリカ、サンフランシスコに赴任し、家族で帯同することに決めた頃は漠然と数年間でまた日本に戻ってくるのだろうなと考えていた。夫は既に20年近く同じ会社に勤務しており、出世街道を進んでいた。一方、私は大学卒業後に民間企業に5年間勤務した後に退職。以後は専業主婦として2人の子育てをしながら、下の息子が幼稚園の年中になった頃から塾の英語講師(夫が在宅している土曜日の夜だけ勤務)や、在宅でできる初心者向け英会話オンライン講師などのパートをしていた。
専業主婦となったのは夫も私も同じような価値観を持っており、現代では大変古い考え方と一笑に付されそうだが、夫は仕事に専念して家族を養い、妻である私は家事、育児を全面的に受け持つ形が我が家にとっての理想の夫婦関係だと考えていたからだ。夫婦はチームワーク。役割分担をして、お互いが自分の責務を果たす。何か問題が起きたら2人で立ち向かう。子供の頃に聴いたアニメ『名犬ジョリィ』の主題歌、「ふたりで半分こ」の歌詞にあるように、悲しみも喜びも夫婦で半分こだ。
夫のサンフランシスコ赴任が決定すると、パート先は退職して再びアメリカで専業主婦となった。駐在員という立場である以上、いつかは帰国辞令が下りる。せいぜい3〜4年で日本に戻ることになるだろうと思ったので、日本の家は定期借家契約3年で賃貸に出していた。
実際にこちらで暮らしてみると、思っていた以上に自由の国、アメリカは生活していて楽しかった。全く英語を話せなかった子供達が一度も日本に帰国したいと言わなかった話は以前書いたが、40歳を過ぎてから初めて海外駐在をすることになった私たち夫婦も、だんだんとできるだけ長くこの国に居たいと願うようになっていた。
そして何よりも親の勝手な都合で日本からアメリカに連れて来た子供達を再び親の都合で日本に戻すことはできるだけ避けたい、仮に夫は帰国することになっても子供達にはアメリカに残れる選択肢を残してやりたいと夫婦で考え始めるようになっていた。
当時、私たちが所有していたビザ(VISA)は駐在員ビザであるL ビザ(夫はL-1 VISA、私と子供達はL-2 VISA)。このビザは駐在員としての資格がなくなると家族もろともアメリカに残ることはできない。アメリカに滞在しているうちに何とかして永住権(Permanent Resident Card)であるグリーンカード(Green Card)を取得したいと思うようになり、毎年行われるグリーンカードの抽選に応募しては落選し、同時進行で夫は勤務先に事情を話して何とか子供達のことを考えて会社としてグリーンカードのサポートをしてもらえないかと頼んでみたが、却下された。
会社のサポートが得られないことがはっきりわかると、夫はアメリカ永住権を持つ知り合いにいかにしてグリーンカードを取得したのかを尋ね、勤務先のサポートがなくても個人でグリーンカードを取得する方法(EB-1Aカテゴリー申請)を知り、優秀な弁護士を雇って2020年10月に見事に家族全員にグリーンカードを手に入れてくれた。
そして2021年1月、4月1日付で日本への帰国辞令が下りることを聞かされた。当時カリフォルニア州は2020年3月からのロックダウンで、学校も会社もオンライン化が進められ、我が家も家族全員が一日中家で過ごしている状況であった。
ろくに英語も話せないままアメリカに連れてこられ、血の滲むような努力でこちらの大学に入学した娘は、楽しみにしていた高校の卒業式がオンラインとなり、心を躍らせていた大学でのキャンパス生活もお預けとなり、新しい友人と知り合う機会も制限されて、すっかり落ち込んでいた。
グリーンカードを持っているので、娘だけアメリカに残す選択肢はあったものの、精神的に不安定になっている我が子を残して帰国することは考えられなかった。夫は勤務先に事情を話して、なんとかもう少しアメリカに残してもらえないかと陳情したが、会社には会社の事情がある。サラリーマンである以上、辞令は絶対であった。
まずは夫婦で話し合い、家族全員の幸せのためにアメリカに残ることを決めた。つまり夫は大学卒業後25年間勤めた勤務先を退職することにした。その後の働き先の当ては全くない。会社を辞めてから考えれば良いと思った。とはいえ、それまで会社に忠誠を尽くしてきた夫にとっては簡単にできる決断ではなかったはずだ。
次に子供たちを呼び、私たち夫婦の決断を伝えた。ふと日本からサンフランシスコへの転勤を伝えたときに思わず泣き出した小さかった頃の子供たちの様子がよぎったが、今回子供達はもう泣かなかった。娘も息子もアメリカに残るという決断に異存はない様子であった。
我が家はアメリカに来てから、劇的に家族で過ごす時間が増えた。日本では平日は忙しくてほとんど顔を合わせることがなかった夫と子供たちが、家族優先主義のアメリカに来てからは当たり前のように一緒に過ごす時間が増えたことは、我が家にとって最高の贈り物であった。
事実、夫は日本での父親不在時間を取り戻すかのように家族との時間を大切にしてくれた。いや、もともととても家族を大切にしてくれる人なのだが、日本の長時間労働と飲ミュニケーション文化が家族の時間を奪っていたように思う。
夫は現在50歳。仮に帰国辞令に従っていたとしても、おそらく10年後には再び自分のキャリアについて考えざるを得なかったであろうと思うと、あの時に辞める決断をして独立起業したことは正しい判断であったと確信している。